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自然的な愛と文明的な愛の違いとは何か?

愛とは一つの執着である。その対象は何でもよいが、これだけでは愛の概念があまりにも広範であり、芸術に対する愛と配偶者に対する愛と友人に対する愛が、まったく同列に扱われてしまう。よって、より厳密に愛の概念を分類する必要がある。しかし、原則は前述したものであって、愛とは非常に包括的な概念である。
愛の対象として考えうるものは何であろうか。物、動植物、人間、特に異性や友人、芸術、自然、イデオロギー、等々である。人間は本人の嗜好によって、ある対象に特別の価値を見いだし、特別にそれを寵愛または執着する。この愛はあくまでも本人の嗜好に左右される。ある愛が全人間にとっても絶対的な愛であることはあり得ない。それは本人が何を欲しているか、何を嗜好しているかに拠るところであり、美の概念と似通っている。

エロスとは人間における動物としての生殖愛、家族愛、中間愛、物質愛と、知性よりくる芸術愛、哲学愛の総和である。よってエロスには自然的エロスと文明的エロスに区別することができる。ここでいう文明的とは、人間の動物的部分を排除した非常に人間の知性固有における哲学的、芸術的作用を指している。もちろん、そのエロスは対象が自然的であるか、文明的であるかを問題としていない。本人の抱く愛の動機が自然的であるか、文明的であるかに拠る。ある女性への愛が、生殖の対象として見ているのか、その女性から醸し出される美や哲学として当人を観ているのかでは、対象が女性という自然的な存在であったとしても、エロスの形が異なることは容易に理解できる。つまり、エロスとは愛の総和であり、その存在の比によって文明としての人間を確認できる。動物的姿を排除し、哲学、芸術のみを愛する人間は、それらの源泉が人間固有の知性からくるものであることから、真の人間たることを照明している。文明としての人間は、文明的エロス以外に愛を持っていないことになる。文明的エロスは人間の本質である知性を起源としており、それに満たされた人間のみが文明としての人間となる。原始的、社会的人間は、知性を祖のみに宿しながらも、動物としての行為をそのままにしている。よって彼らの表出するエロスはとても動物的であり、動物的動機に基づいている。しかしながら、知性を身に宿しているために、文明的エロスも共存している。自然的人間は自然的エロスを排除することによって、文明としての人間になることができるし、その共存部分に問いかけ、彼らを文明へ導くものこそ、哲学と芸術の意義なのである。
ところで、自然的人間はときとして、生殖行為をしながらも自然的エロスを動機としないことがある。それは生殖の目的が子孫の増殖にあった本来的なものから、物体、行為そのものに美的、哲学的意義や関心をもつことで、文明的エロスを動機としてしまうことがある。これが異常性欲である。ここでいう異常とは、子孫の増殖が本来的な意義であるはずが、それを目的としないことに対して異常という言葉を用いている。その詳細は後述する。例えば、性的対象が人間のある部位に限られており、それ以外に性的興奮を味わうことがない、または他者から生殖行為以外の行為を受けることによって性的興奮を味わうことである。または生殖行為の目的が本来的な意味における受胎ではなく、男女もしくは同性間の愛を確認することに限られていることである。これらは現代でも優に観察できる現象である。人間の生殖行為とは、かつての動物的な代々の営みではなく、自己の愛を満たすための行為となったのである。もはや生殖行為は彼らにとって子孫云々ではなく、文明としての精神による、崇高な本来的に芸術的行為なのである。ゆえに異常性欲は性的対象が人間のある部分や状況、ある物体に向けられているのである。
異常性欲とは自然的な生命が生殖をする際に覚える生殖器への愛着が存在せず、他の要因に性的欲求を覚えることをいう。自然的な生命であれば、本来、生殖期になるとその自然的な本質に従って生殖をする。その生殖期を示すのが生殖器であり、生命はそれを認識することにより、生殖を行うのである。しかし、ときとして、人間にはこの生殖器への愛着をもたない者がいる。それは人間の生殖器以外の部位または身体に付属する物的または精神的要素に対して、性的欲求を覚えるのである。その目的は生殖ではない。単に一時的な満足を得るための行為である。
 そして、この異常性欲とは生殖の本来的な目的を排除するものであるため、反自然的であり、反社会的である。社会もまた、自然的な人間の獣性を満たすための道具であるために、反社会的といわざるを得ない。しかし、反社会的であるということは同時に、文明的であることを意味する。それは社会が人間の獣性を満たすためという動物的目的によって創設されたことから解る。

愛を定義するにあたって、非常に実務的な、愛を体現するであろう行為そのものについて考察を行った。ここで重要となるのは、愛には自然的なものと文明的なものがあり、人間は文明的な愛を求めるべきであるとする著者の見解である。

この愛を確認する上で、最も参考となるのが芥川龍之介の『地獄変』である。『地獄変』とは知っての通り、『宇治拾遺物語』に材をとった小説である。良秀はまことに腕の立つ絵師であった。彼は絵を描くにあたって、自分が見たものでなければ描けないのが欠点であった。しかし、一度、見たとなれば本物と見間違うほどの絵を描く腕前を持っていた。
あるとき彼の後援者である堀川の大殿が、地獄変の屏風を作るように言ってきた。良秀は地獄変に登場する様々なものを描きつづける。そのために弟子たちを使って、蛇や鷹に襲われて苦悶する表情を詳細に観察し、描いていった。そうしなければ良秀は屏風を描けなかったのである。そして、最後に良秀は燃えさかる牛車から泣き叫ぶ女性の像を描こうとし、堀川の大殿に牛車を燃やすよう願い出た。堀川の大殿は二つ返事で、それを手配した。
良秀の目の前で牛車に火が放たれると、中から女の叫び声がした。なんと中には良秀の娘がいたのである。というのも、堀川の大殿は良秀の娘をいたく気に入り、自分の妾としたかったのだが、良秀はおろか、娘自身もそれを良しとしなかったことに腹を立て、脅しのつもりでこれから燃やす牛車の中に娘を入れたのである。堀川の大殿はそれに驚いて、妾とすることを良秀が許すだろうと思っていたが、良秀は燃えさかる牛車から叫ぶ娘の姿を見て、助けに行くこともせず、ただひたすらに筆を走らせ、その景色を写していったのである。
これにより地獄変の屏風は、他に類を見ないほどの傑作となった。屏風が完成してすぐ、良秀は自害したのである。

この小説には、良秀の中にある自然的な愛と文明的な愛の葛藤が見て取れるであろう。これまで考察してきた愛の概念について、これほどまでに体現された小説はないであろう。
良秀は文明的エロスのために、愛する娘が牛車の中で焼け死ぬのを最高の美を観る視線で、一心不乱に筆を走らせたのである。それは家族愛というものを超えた、芸術を追究する愛である。己の芸術という規範のために自らの娘すらも犠牲とするその心理は、動物的な姿を脱した知性よりくる芸術と哲学の至上である。芥川自身も、この小説において自らの芸術至上主義としての立場を確立した。文学においてその芸術性こそが全てなのであり、それ以外は全く無価値である。それが後の文学評論『文芸的な、あまりに文芸的な』に描かれている。筋らしい筋のない小説、彼にとってその例は志賀直哉の心境小説のようであったが、小説のプロットに芸術性を求めるのは間違いであり、プロットではなく、修辞法、意図に文学独特の芸術性があるのだとした。彼はこれを書く前には、プロットを重視した小説をいくつも発表しているが、この心境小説の発見は彼の文学理論を変革させてしまうほどの芸術性をもっていたのである。ここにあるのは文明的な愛であり、その至上こそが人間の芸術たる証なのである。
方や、良秀は娘を見殺しにし、屏風を完成させてすぐに自害している。これは人間の動物的な意識として、家族よりも芸術をとった自身の動物的な戒めとして、一つのけじめを付けた格好である。人間は動物的な姿から脱しようとする傍ら、彼自身動物でもある。だからこそ、その姿から脱しようとするのであるが。娘の死は自分の非であると感じた良秀は、屏風という生命そのものではないもののために裏切られた娘を思い、自らの生命を絶ったのである。これは自然的な愛である。家族は自然全体に共通して存在する唯一の社会である。人間は家族以外に、家族以外の要件によって共同社会を創設する。家族は自然の存在において、第一となる存在であり、規範である。良秀は家族への裏切りによって、その自然的な愛を放棄し、一時は屏風の制作に身を投じながらも、自然的な愛を忘れることができず、自害したのである。

愛はこのようにして実行されるのである。表題の問いかけについての回答、その結論は前述した。今一度くり返すが、人間が求めるべきは文明的な愛であり、それはあたかもニーチェが夢想した超人のようである。それは実現不可能というのではなく、理論として構築される以上、それは実現可能性を有しており、この考察に現実性が存在しないことを理由に否定することは実に早計である。
牛が牛たろうとするのと同じように、人間は人間たろうとする。人間には他の生物に観られない知性がある。知性は自然的な姿を嫌悪する性質をもつ。それは自然の動物が自身の欲求のために、略奪と殺戮を行うことが、人間の共同社会では見られないことからも解る。この知性からくる文明的な愛が人間たることの本質なのである。
この愛の考察によって、人間は本来的な人間になるのであり、自然にその存在をもつ人間の本質が実現されるのである。

政教分離の起源と現代

近代国家において政教分離とは一つの基本原則である。それは国家が政策としてとある宗教を国民に対して強制してはならないことを意味している。宗教とは帰依者の教義に対する盲目的な服従を意味しており、その教義が国家の元首であるなどとされると、国民は元首の独裁を許してしまいかねない。近代国家において重視されるのは市民の自由と権利である。信教の自由とは近代憲法の全てに観ることができる。市民には国家がどんな文化圏に属していようとも、いかなる宗教を信仰する自由を有しているのである。
しかし、国家の運営である政治が、信教の自由を保障された人間が行う以上、完全に政治が宗教から独立することはできない。執政者に政教分離を名目に信教の自由を保障しないのは、いくら公人といえども近代憲法の精神に反する。そもそも政教分離というのは「SEPARATE of RELIGION and STATE」ではなく、「SEPARATE of CHURCH and STATE」であり、国家と宗教の分離ではなく、国家と教会の分離を意味している。フランスでは1789年の大市民革命以降、自由と平等の精神から政治が宗教と癒着することをひどく嫌悪する傾向がある。それはこれまでのルイ家の王制がローマ・カソリック教会と密接に関連しながら政治をしていたことが原因でもある。初期のソ連においてはマルクス主義の精神から、宗教は人間の麻薬だとして国民に対していかなる宗教の信仰も禁止していたこともあった。さすがに国民の信教までも取り上げてしまうことは、敬虔なギリシャ正教徒であった農村の人々からの反発があったために、レーニンは信教を解禁することとなった。国家がある宗教団体との癒着に反対し、その癒着から他の宗教団体が圧迫されること、不公平に政策上取り扱われることに反対している。つまり、執政者に信教を抑制しているのではなく、執政者がある宗教を信仰していれば、その信仰心から国民にそれを強制したり、その宗教団体にだけ租税を優遇したり、逆にそれ以外の宗教団体に増税をかしたりすることなどを禁止しているのである。政教分離は執政者を含めた全ての国民に対して信教の自由を保障するために、近代国家の自由と権利を尊重する精神から生まれた制度なのである。
政教分離が現代において問題となるのは、こと日本においては靖国神社参拝や公明党の問題である。これもこれまでの政教分離の考察から判断するに、まったく的を射ない論争であることが解る。宰相が靖国神社に太平洋戦争で死んでいった英霊たちに冥福の気持ちをもって参拝することが、靖国神社という神道の特別な宣伝になっているのか、または参拝によって他の宗教が圧迫されているのかはまったく別の問題であり、そのようなことが現実として起こってはない。靖国神社とは戦中の日本における天皇崇拝の中枢であり、国民の盲目的な拠り所であるというイメージが、戦争を体験した人々にとって良くない印象をよみがえらせることになること、また靖国神社には極東国際軍事裁判で裁かれた東条英機などのA級戦犯が祀られていることなどから、中国や韓国など日本に侵略された意識の強い国家にとって、宰相がそこに参拝することによって良くないイメージを抱かせることになるので、参拝をするのは控えた方がよいのではないかとされるのである。これを政教分離の議論として、裁判所に提訴している団体のいかに理論的でないか、またその提訴に対して政教分離の精神に反すると判決する裁判官のなんと法・政治理論としてなりたっていないことかが証明される。これは極度に政治的な問題であり、単純に国家が宗教と分離されるべきであるなどと考えることにはならない。
これと同じことが公明党にもいえる。公明党の支援団体には創価学会という宗教団体が存在する。端的にいうと、そこから献金を得ているのである。それが果たして政教分離に反するのであろうか。献金だけなら自民党も神道団体や戦没者団体から献金を得ている。献金を得ているからといって、これまで自民党と公明党の与党が献金を得た宗教団体に対して便宜を図ったことがあったであろうか。それはない。ドイツでは政党名にはっきりと宗教名を記している政党すらある。ドイツキリスト教民主同盟がそれである。イタリアにもキリスト教同盟がある。アメリカ大統領選挙の際に、候補者が宗教団体から支援を受けることなど珍しいことではない。大統領就任式では大統領は聖書に手をおいて宣誓をする。合衆国憲法ではないのである。とある州が、またはカウンティーがカソリックの精神を重視することから公立の小学校では地動説を教えてはならないとする政策が執られているほどである。ここまでは考え物であるが、少なくとも公明党の批判されているところの政教分離の問題には、その理論性に疑問をもたざるを得ない。ヨーロッパ諸国では、宗教を信仰していないのは人間ではないと考えられている。日本のように宗教に無関心で信仰心の薄い国民性ではない。しかし、宗教は文化と同じく多様であり、各個人が一国家内において多元的にその利益を尊重し、認識し合うべきであるとする自由主義の精神が息づいているのである。日本にはその政治的な自由主義の精神が乏しい。よって的はずれな政教分離の議論がなされるのである。
これからの現代国家において求められるのは、もちろん政教分離の制度であるが、それと同時に互を尊重し合う寛容な市民精神と自由主義である。

アジア的価値というイデオロギー

近代以降の欧米諸国において噴出した歴史の新たな現象は民主主義革命でした。近代までの歴史には侵略戦争の敗北による支配者の交替、支配層が武力的または組織的に失脚させることで支配者を交替させるクーデターなどが観測されてきました。その多くが権力的な支配による新たな支配を確立しています。革命もまたその一部でした。革命とは被支配者が支配者を武力的に失脚または追放することで、支配者の交替を図ることをいいます。これはクーデターとは区別されるべきです。近代までの歴史において、革命が起こらなかったとは言えないでしょう。ある帝国の被支配民族が蜂起をして支配民族を打ち倒し、自らが支配民族となる現象はあったでしょうが、近代までの戦争、クーデター、革命によって新たに樹立された支配者のほとんどが、権力的な上意下達の支配体制を敷いていました。
しかし、近代に入って、貴族とは別の経済的能力を持つブルジョアジーの出現によって、政治への参加を要求することになります。ブルジョアジーはそれ以下の民衆とも結託して、支配層である王侯貴族を打倒しようと革命を起こしました。革命後の支配体制は、特定の集団では収まらない市民という国家を構成する人員の大多数が、これに参加しなくてはならなかったのです。これまでのように特定の支配者の首がすげ替わるといった権力交替ではなくなったのです。そこで革命後の支配体制は、民主主義というイデオロギーを採用しました。そして、それは国民主権に基づく憲法を基礎に、自由主義と相まって西欧的価値における自由民主主義を確立したのです。
自由民主主義は国民の権利と国民の同一性を目的として、国民の政治参加を促しています。その程度については各国各時代に様々でありますが、現在ではおおよそ国民一般に政治参加が行われ、このイデオロギーが政治体制としては相対的に平和なものであると考え、様々な国際社会での基準に用いられています。
現代において位置づけられなくてはならない、もう一つの革命は社会主義革命です。まさに20世紀とは社会主義の時代であるといっても過言ではありません。社会主義はソ連を皮切りに、数々の国家で政権を樹立させ、アメリカを中心とする自由民主主義と対決する冷戦の時代が存在しました。それも現在では儚くも消えてしまいました。
 社会主義革命は人間を搾取するブルジョアジーに対するプロレタリアートの蜂起であり、権力的支配の象徴である国家を消滅させるためにプロレタリアートの自治による政治経済の実現を目的としていました。しかし、それは建前であり、実際の革命後の支配体制は共産党を媒介した、権力的な上意下達のものでした。国家主導による経済牽引のための生産技術の近代化、体制を安定させるための国民管理によって、西欧から立ち後れた工業生産力の増強に努めました。
それらの試みはある程度の成果をもたらしました。それは社会主義革命が実現されるような貧弱な経済状態と社会構造の未発達に助けられています。つまり、手放しで経済を国民に任せることができない経済と社会の貧困の中に、自由市場と民主主義を導入しても、それを活用するだけの精神的、経済的基盤がなく、国家は社会的に混乱するであろうことから、支配者は国家政令、計画経済による国民管理を徹底することで、彼らの生活向上を試みたのです。
冷戦期に登場した開発独裁も、このような意図によく似ています。支配者は市場経済を採用しながらも、国家主導の工業開発、政権安定のための国民管理を志向します。開発独裁が現れたのは、韓国や東南アジア、アフリカ諸国など、社会的基盤の脆弱な地域でした。シンガポールもその一つであり、リー・クワンユーが人民行動党による開発独裁を敷いました。そして近年にかけて、それら多くの国々は経済発展をテコに民主化を実現させています。それでもなおシンガポールだけは、経済発展を遂げても民主化しない特殊な事例として存在しています。
その理由として、彼はアジア的価値という概念を提唱しました。これはアジアという多様な宗教、民族、文化が入り交じった地域において、欧米のキリスト教、ラテン語を源流とした共通の文化を基礎にする自由民主主義は定着しないであろうから、アジアは独自の価値を志向しなくてはならない、という方針です。
アジア的価値というものが本当に存在するのでしょうか。確かに自由民主主義の源流を辿れば、西欧の価値観に到達するかもしれません。しかし、体系化されたイデオロギーは国境を越えます。その代表とも言えるのが共産主義です。自由民主主義もまた同じでしょう。そもそもイデオロギーと、それを制度化することは別の問題です。さらにアジアにおいても、その範囲は広大であり、そこには多様な民族と宗教、文化が存在しています。これをアジアという言葉でひとくくりにし、共通する価値があるのだと説くことは、アジア的価値自身が批判する価値の多様性の尊重という理念と矛盾しています。
自由民主主義は多様性を重んじるイデオロギーです。その自由民主主義を実現するための制度は、各国の文化や歴史、宗教などを勘案して創設されるべきでしょう。なぜなら、自由民主主義とはあくまでもイデオロギー、つまりは理念なのです。西欧の文化などをそのままアジアに根付かせることはできないかもしれませんが、この理念さえ揺らぐことがなければ、その制度は多様であるべきでしょう。しかし、リー・クワンユーの統治したシンガポールがその自由民主主義を理念とすることができたとは言えません。
彼の支配はあくまでも開発独裁であって、それがアジア的価値と認識することもできません。所詮、この概念は彼が打ち出した正統性を確立するための政治的な方便であったのではないのでしょうか。

自由民主主義ジハードの失敗

サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』内で、冷戦の終了後の世界は、民族や文化、宗教などの非寛容的なアイデンティティを持つ文明の対立になるであろうと予言しました。具体的には中華文明とイスラーム文明がキリスト教文明と対決するであろうと、そこでは述べられています。
2001年9月11日のNY同時多発テロによって、その言葉は的中したかのように見えました。ブッシュ大統領は犯行の首謀者とされるアルカイダに所属するビンラディン氏に対して、アメリカ全国民の報復と位置づけて、彼をかくまっていたアフガニスタンのタリバン政権を攻撃しました。ベトナム戦争以降、アメリカは厭戦ムードに包まれ、冷戦の終結によってアメリカが直接的に攻撃に出ることを、国民は望まないように思われていました。しかし、テロの映像はあまりにも国民の復讐意識を燃え上がらせ、メディアもほとんどがブッシュ大統領の報復攻撃に賛成したのです。アメリカはタリバン政権を崩壊させた後、悪意を持ったテロ活動を支援する国家、とどのつまりアメリカに敵意を持つ政権に対しての身体検査を試みようとしました。湾岸戦争の辺りから侵略戦争をくり返してきたイラクのフセイン政権に、大量破壊兵器が製作されているのではないかという疑惑が浮上し、国連を通じて何度か査察の受け入れを要請しますが、フセイン政権はそれを拒否しつづけました。今にもイラクを攻撃しようとするアメリカに対して、フランスやロシアなどは査察が先であるとして、安全保障理事会でのイラクへの非難決議ならびに制裁決議の採択が行われるのかどうかが争点となっていました。結果、アメリカは単独行動に出ました。2003年にイラクを攻撃しますが、大量破壊兵器は発見できませんでした。それでもフセイン政権を崩壊させ、アメリカ軍を駐留させながら、新たな統治機構を発足させていますが、安定化には至っていません。このたびのアメリカ大統領選挙に当選したオバマ氏は、イラクからの早期撤退を公約にしています。不安定な治安状態のイラクからアメリカ軍を撤退させ、正統性が確立していない新たな統治機構に全てを任せてよいのかは疑問が残ります。
そして、アメリカはイランに対しても大量破壊兵器開発と核兵器開発の疑いをかけています。イランのアフマディネジャド大統領は、イランは核開発をする権利がある、といった発言を繰り返し、アメリカを始め核保有国並びに多くの国々から批判をあびることになります。しかし、去年、アメリカの報道官はイランでの核開発は平和的な活用であって、兵器の開発している証拠をつかむことができなかったと発表する事態となっています。これらの行動によってアメリカの中東政策は、完全に正当性が欠落してしまいました。確かに、イラクやイランにも査察の受け入れを必要以上に拒んだことは、事態を悪化させてしまう原因の一つであったことに間違いはありません。アメリカの報告もあくまで核兵器開発の証拠をつかめなかったと言っているだけで、イランに核兵器があるかどうかの疑惑は完全に証明されていません。その後もイランはロシアや中国と軍事的、経済的協力関係の構築を進めており、アメリカを牽制しています。アメリカは今後、中東政策の大きな見直しを図らなくてはならなくてはなりません。
これまでの中東政策の目的は民主主義を各国に広げることでありました。つまり、非欧米自由民主主義的な政治体制と文化のイスラーム諸国に対して、民主主義の政治と文化を定着させることで、国際的な同質化を図り、安全保障を実現しようとしていたのです。利権や圧力団体の政治的な動きは別にしたとして、それがアメリカの中東に対する基本政策でした。
しかし、イスラーム諸国は非常に多様性に富む地域です。インドネシアのような一般的な自由民主主義を享受した国もあれば、サウジアラビアのように王権による政治体制を維持しつづける国もあります。自由民主主義とは普遍的な概念であることに異論はありませんが、キリスト教文化を継承する欧米の自由民主主義の概念を、中東諸国にそのまま移植したところで、きちんと定着するとは限りません。欧米の自由民主主義とは中世の封建制による小規模なコミュニティにおける規範意識と、ローマ・カトリック教会またはプロテスタントの倫理意識とに裏打ちされ、ブルジョアジーの参政と独立志向が結びついたときに市民革命として発生したものです。中国を始め、イスラーム諸国に欧米の自由民主主義を受け入れる歴史的な意識が備わっているかと言えば不十分であろうし、何かしら地域の伝統に根ざした制度に変容せざるを得ないでしょう。イスラームはその伝播について、商売人を媒体としながら地域の伝統と融合した宗教として定着しています。つまり、自由民主主義というエッセンスさえ取り入れていれば、多様な自由民主主義の形は容認され得るのではないのではないでしょうか。
もちろんそれが有名無実のものとなってはいけません。国家の基本法に民主的な制度を明記しておきながら、実際の執政は独裁を強いている国家は数多くあります。しかし、自由民主主義が、まさにジハードによって達成されることはないでしょう。自由民主主義という印籠をかざせば、何事も順調に事が運ぶというのは間違いです。このような政治的思想が根付くまでには、その地域や民族に伴った時間を必要とするのであり、イデオロギーに普遍性があることが直ちに正式な制度としての成立や定着を約束していることはありません。
これらかの国内的、国際的な自由民主主義とは多様性を尊重した上で、さらに高次の公共概念を判断の基準にしなくてはなりません。その第一歩として、欧米一辺倒の自由民主主義の伝播の仕方を見直すべきなのではないでしょうか。

『ef』を論ずる。

なぜ、とてつもない畏怖が私を襲うのでしょうか? かねてから『ef―a tale of melodies―』は鬱アニメにふさわしい内容量でシリーズを昇華してきました。約半分を超えた辺りです。もうお約束といっても良いのかもしれませんが、画面を全て文字で埋め尽くす演出が、最初は優子に、二回目は久瀬に使用されました。しかも、その間は息がつまるほどに憎悪と恐怖と不安と悲しみが吐露されます。作品は決して楽しいものばかりではありません。私が六年間、アニメを、マンガを、小説を、絵画を、音楽を、ミュージカルを、映画を、評論を、学術を見続けてきた結果、現時点でたどり着いている芸術という、非常に曖昧でありながら欠かすことのできない概念を定義づけます。
『ef』は終始、問答によってストーリーを進行させます。登場する誰もが暴力ではなく、問答をくり返すことで、ある帰着点を探し求めます。それは日常の煩雑なことから、恋、生命、人生、芸術といった漠然とした命題までを取り上げます。ちょうど、プラトンたちが『饗宴』の中で探り出そうとしたエロス、ニーチェが探し求めた怒りのように、みんながテーゼとアンチテーゼの演説によって一つの共通善にたどり着こうとする作業のようです。それは弁証法と呼ばれる作業です。弁証法は大きな時間の流れによる問答です。これはトートロジーかもしれません。それでも、この訳が最も適しています。その昔、プラトンはソクラテスの意思を引き継いで、多数の人々の問答によって真の善に行きつかなくてはならないと考えていました。ソクラテスは一遍の文章を書くこともなく、ただ問答によってのみ哲学を切り開きました。それは善を探る作業と言うよりも、詭弁つまりは足の引っ張り合いによって弁論の勝敗を決しようとするものだったでしょう。自身の命題が結論と矛盾なくつなげることができれば、それは正しい理論となります。しかし、同じ条件、同じ手順を踏んだとしても、各人によって観点は異なり、それが結論に大きな差異をもたらしますが、矛盾がなければ、それぞれは正しい論理となります。一つの事項について複数の結論が導き出されたとき、人はそれらを評価します。矛盾がないゆえに論理を崩すことができないのであれば、もはや良い、悪いという曖昧で個人的な概念による評価をしなくてはならなくなります。ソクラテスは、その良い、悪いという概念がどの程度の共通性を有するのであるかを問題にします。確かに貴方の判断はそうかもしれないが、その感情を私が受け入れなかったら、貴方はどうするのですか? この問いを矛盾なく、しかも共通した概念を用いて、それでも善悪は存在するのである、と証明することは困難です。よって私は公共善も、正義も存在しないという論証に逃避するのです。
マルクスは唯物論的弁証法によって、プロレタリアートは革命意識に目覚めてブルジョア社会を打ち倒し、誰もが平等な搾取、抑圧組織である国家が存在しない世界が実現されるのだと結論づけました。果たして、それは正しかったのでしょうか。このテーゼを論破するためには、実証的手法による反駁と理論的手法による反駁の二つがあります。前者は歴史的事実として共産主義の夢は潰えたのだ、と証明すればよいのです。ソ連、中国、それら社会主義が崩壊した実例を挙げ、どこにその問題点があったかを指摘すればよいのです。確かにソ連は社会主義体制と冷戦の一翼である陣営を瓦解させました。中国も中国共産党の一党独裁が続いているだけで、経済体制のみを取り出すならば、あれほどの資本主義体制はないでしょう。地方委員会や有力者が野放しにされている分、アメリカの市場原理主義よりもやっかいです。こうしたことからマルクスのテーゼは間違っていたと言えるでしょう。それでも、これはあくまで歴史的事実でしかあり得ず、未来に共産主義が実現しないことを証明したことにはなっていません。歴史の教訓を子孫が学ぶことを期待する、といったぐらいにしかなりません。これは反駁としては不十分でしょう。私であれば、ソ連や中国が、そもそも共産主義を目指していなかったのだ、と反論するでしょう。あれはレーニンやスターリン、毛沢東がマルクスの理論を歪め、自らの政党支配を実現するために行った愚かな歴史なのである、と。これが実証的手法による反駁の限界なのです。ならば後者を考えるしかありません。
後者の反駁はどこに重きを置いているかといえば、テーゼそのものに矛盾を見つけ出すことです。ドイツ社会民主党のベルンシュタインは、そもそもプロレタリアートは革命意識に目覚めない、と考えました。プロレタリアートはその生活を平和的に保障することで、ブルジョアジーを打倒しようなどとは考えず、また経済発展のためにも、その方が有効である、としました。これはイギリス労働党の議会主義の精神に影響されたものです。しかし、それに反対を唱えたのがローザ・ルクセンブルクでした。ルクセンブルクは、プロレタリアートは学問的に未熟であるため、自分たちが生産する物財・サービスの価値をブルジョアジーに搾取されることが、どれほどの悪徳かを理解できないから、我々、党が先頭に立ってプロレタリアートにイデオロギー教育をし、革命意識を高揚させなくてはならないのだ、としました。それはレーニンも同じ考えを持っていました。これは冷戦における中ソ対立時に、修正主義と教条主義の対立の元になったところです。これはどちらが正しいと考えるべきでしょうか? 一見してルクセンブルクの理論はマルクスのテーゼを実現しているように見えますが、それはまったくの間違いです。マルクスは自発的なプロレタリアートの革命意識を期待したのであって、党のイデオロギー教育による強制的な革命を求めたのではありません。両者とも論理的にマルクスのテーゼに反駁をしたため、あとは個人的な善悪の価値判断に委ねられることになります。それでも、議会による穏健なプロレタリアートの利益保護と、革命による暴力的なプロレタリア社会の実現、というまったく異なる結論にたどり着くことになりました。
もう一つ、理論的手法から反駁を加えましょう。私であれば、そもそも人は発展を求める生き物であって、革命によるプロレタリア社会を目指さない、というアンチテーゼから始めるでしょう。マルクスによれば、プロレタリア社会は、国家はなく、各人が共通のコミュニティ意識によって結ばれ、各人が必要なところに必要な分だけ生産し、配分されるため、全ての人は平等になる、としています。各人に必要な分のみの生産と配分を保障されたとき、全ての人の効用が充たされたことを意味するでしょう。それは国家ではなく、プロレタリアートが自発的に均衡の判断をするのです。果たして可能でしょうか? それは数学的な技術でもって言っているのではなく、人間の向上心を無視した形の理論にどのくらいの有効性があるかと問うているのです。マルクスは、技術発展はコミュニティ意識から人は自分だけ得をしようと考えないため、広く技術の共有をするであろうから、資本主義の不効率な投資と不均衡な賃金よりも優れた技術発展を実現できるだろう、と説いています。しかし、これは矛盾しています。効用が充たされた状態であるのに、技術発展が必要であるのか、ということです。全ての人が満足を最大化したのに、更なる効用を得るための努力をする人間はどこにもいません。つまり、共産主義の世界とは進化の止まった世界なのです。全員がそこに満足をしているのであるから、わざわざ他人より苦しい思いをして、自分を含めた全員にその利益を分配させなくてはならないような技術開発をするか、といった根本的な矛盾にたどり着くのです。今日の世界があるのは、人間の向上心があってこそです。明日よりは、アイツよりは、優れた存在であろうとする競争の精神があるから、人間は今日の生産技術を手に入れたのです。向上心は資本主義、自由主義の中でしか芽生えません。必要な分だけの生産しか許されない人の一生に、向上心という余録は存在しないのです。これは人間の本質に矛盾しているため、マルクスのテーゼは間違いであることが証明されたのです。
私はこのテーゼを、弁証法を用いて反証しました。これは少なくとも私の観点からすれば、マルクスのテーゼは反論されたと結論づけられたのです。もちろん、同じ条件、手順を使ったとしても、別の結論が別の人間によって証明されることもあるでしょう。その結論は正反対になることもあるでしょう。一つの命題について、複数の結論が導き出されたとき、どれを選択するかは、選択者の個人的な価値判断に委ねられるのです。これはある意味で非常に不毛なことなのかもしれません。結局は、真の共通善にたどり着くことはできないのです。それが弁証法の限界とも言えるでしょう。数学や物理のように、条件と手順を了承すれば、誰でも同じ回答を導き出せる科学とは違うのです。よって、かねてよりマルクス理論の批判者たちは、特に経済学者たちは科学的手法によって、そのテーゼを反論することを試みてきました。しかしながら、私は敢えてマルクスが用いた唯物論的弁証法によって、マルクスのテーゼを反論することにこだわります。それは科学的手法を、人間という不確実性に満ちた存在に使用することに、不信感があるからです。一見、証明されたように見えて、実は一つとして的を射ないような結論は多々あります。貴方の判断はそうかもしれないが、私は貴方が付したいくつかの条件を受け入れない、と言えば、その論理はもはや成立し得ないことになります。話が一周したようですが、ソクラテスに返ってきてしまうのです。私の反駁についても同じことが言えるかもしれませんが。
つまり、論理とは先導者がいない限り、果てしない堂々巡りをつづけるものなのです。『ef』の登場人物たちも同じです。第二期は二段構成、氷室と優子、凪、久瀬の学生時代と、久瀬とミズキの現代を同時進行しています。これは第一期とは違って、まったく遠い世界ですから、頭の切り替えがスムーズに行けばなんら問題ないだろうと思っていました。それでも、人間はくり返すと言いましょうか、氷室と優子の回答が未だ出ぬままに現代の久瀬に同じ命題をふりかけてしまったようです。
優子は引き取られた後の非常に残忍な恥辱から自分を見捨てた氷室に大きな憎悪を燃やすことになります。それは執拗でありながら、確信的であり、興味本位といえます。自分という存在が、正義で片づけることができないくらいに取るに足らない存在だったことを知ってしまったがために、誰の代わりにすらなることができなかった自分を愚かに思ったがために、その全ての根源となった氷室の拒絶に、深い憎しみを抱くのです。しかし、それは自分を認めてほしいという願望の裏返しでもあります。その象徴とも言えるのが、自分を辱めた養兄から、強姦された日に受けとった短剣です。明日にでも消えてしまう、いつでも消えることができる自分だからこそ、何かを終わらせて自分という存在を誰かの記憶に刻み込もうとしているのです。それが氷室だったのです。その優子の深い憎悪と願望に、氷室は堪えることができるのでしょうか。それは解りません。氷室自身も、そのちっぽけであった正義感に憂いを抱いています。
そして、現代の久瀬は、心臓病による強制的な死を突きつけられ、その存在をどこに持ってゆけば良いのかを模索しています。そこにミズキという、彼にとっては偽善が現れたのです。久瀬に言わせれば、ミズキであろうと誰であろうと、自身の死を越えるだけの変わり身とすることはできないでしょう。ただ現れたのがミズキであったというだけです。明日にでも、無抵抗に生命を絶たれてしまう身である自分に成り代わってくれる誰かがいるのだろうか、立ち向かう相手があまりにも大きすぎるために、もはや抵抗する気力も失せ、つかもうとしていた日々を自ら捨てていくのです。それは自分のためでありながら、貴方のためでもあるのだよ、といった具合に。しかし、人間は肉体を越えて、実物として存在することはできません。それは争う余地もないでしょうが。結局は、己の生命にすがりつく以外に方法は何のです。その無力さと言えば、何と生命とは脆く、死を告知されていながら生きなくてはいけない時間とは何と虚しいものなのでしょうか。
私が『ef』に、とてつもない畏怖を感じるのは、本来、持っているだろうとされる人間性が、崩壊し、剥奪され、または奪回しようともがく、そんなプロセスが描かれているからです。それは多くの自然人があってはならないと仮定する心理がそこに働くからだ、とも言えます。人間性とは、自然人がおおよそ持つ自由または権利、柔和、利徳のことです。その根源は生命に約束されたもので、自然人は誰にも縛られないという個人の主体意識の尊重によって保障されています。つまり、自然状態における人間は、個人国家と言うべきものであり、大権はおろか自身の領域については生殺与奪権すらも有しているとされます。その自然人たちは主権を持つことから互いに対等であり、そこに人間性が発生します。しかし、ときとして人間性は望か望まざるかを抜きにして、自然人から剥奪されて、他の自然人の所有物と化してしまうことがあります。そのプロセスは多様であるでしょう。所有物となった従属者が、自然人たらんとして人間性を奪回するのか、所有物に甘んじるのかは本人の意思に拠ります。
複雑な事情を的確に理解するためには、対となる概念や場面を導き出せばよいのです。中国を始めとした東洋は対の文化でもあります。対というものに美意識を抱く傾向があります。法律学においても、自由と平等や、強制と裁量といった概念を並べることで、事柄の理解が容易となります。私の論じ方もその傾向が見られます。『ef』はこの視点からすれば、多くの物事が対となって進行します。前回の時評でも、蓮治と千尋、紘と宮子そして景、といった対立または協同する関係を導き出し、またそれぞれの関係がそれぞれに大きな関係を生みだしている、とする主旨で書かせていただきました。第二期も、学生時代の氷室と優子、現代の久瀬とミズキという関係と、これらが時空を隔てて大きな対関係を成しているのです。それは二つの文字を埋め尽くすことによる恐怖の表現からもうかがい知ることができます。それぞれの意味していることは、優子は人間性の剥奪であり、久瀬は人間性の要求です。優子は養兄の虐待と辱めによって人間性を剥奪され、ある一つの所有物と化したのです。それはおおよそ自然人であれば受けることのない数々の苦痛や恥辱、他の多くの行為によって自然人たることを否定されたのです。その否定の大前提となったのが、氷室の妹になることすらできなかったという幼い少女の失恋から、人格否定をされた心理に至たりました。そんな優子がその後の本格的な人間性の剥奪に対する復讐として、氷室の元へ帰ってきたのです。しかし、久瀬は人間性を、他の自然人に剥奪されたのではありません。何かしらの客体を求めるならば、有限の生命とも言うべきでしょうか。それでも久瀬は、おおむね人が生きるべき年数を大きく欠き、心臓病によって続くだろうと思っていた数々の幸福を手放さなくてはなりませんでした。久瀬は人間性を持つがゆえに、自然人としての生存権の要求をしているのです。そして、それを他者に求めます。もしかすれば、自分を含めた全員に人間性などないのではないか? そういった疑問によって自己の生命を当然視しようとしているのです。究極的な人間性の追求、貴方はなぜ存在するのか? です。この疑問に答えることで、現時点における自らの生命の人間性を確定しようとする作業となります。しかし、正確な回答をすることは困難です。これら二人は視点を異にしながらも、共に人間性というテーゼに反論しようとしています。多数者はそのテーゼを受け入れているかもしれないが、少なくとも自身の体験において、そのテーゼは証明されなかった、といったことです。これに回答を出さなくてはいけないのが、氷室とミズキです。
一切、どんな過程ですらも『ef』は、これらを問答によって成し遂げようとします。優子は恥辱の告白、久瀬は疑問によって、答えを求めます。しかし、答えてくれる者は誰もいません。先導者がいないのですから。問答を真の共通善へ結びつける人は、プラトンの哲人、ニーチェの超人以外にあり得ないのです。ゆえに、夜明け前の会議によって何らかの合意を見いだすしかありません。そして、それは最終回に、いくつかの結論として出されます。ただ受け手は待つしかないのです。
これはまるで舞台を観ているかのようです。舞台はステージの上の人間模様です。これらは何と芸術的なのでしょうか。芸術とは「解らないこと」です。それが私の回答としましょう。
つまり、人間にとっての最上の美とは、獣ができない知性にあると観るべきです。果てしない思考とその源である知性は、ある現象について働かせることによって無数の結論への導くことができます。芸術は決して娯楽と異なり、獣的な快楽を求めるために知性があるのではありません。獣の志向から解脱した人間は文明人であり、彼らはただ壮大な知性に想いをはせる。芸術とは同調性や経済を目的としない万人への考察の強制です。理解を求めることが目的なのではありません。作品は、もっと言うならば芸術は、その知性と向き合った結果であり、受け手と別のところに作者は存在しています。また受け手もそれを解釈し、自身の知性と向き合うのです。
これはまだ断片的な議論です。少なくとも、この命題に行き着くためには、獣とは何か、文明とは何か、社会とは何か、倫理とは何か、知性とは何か、などなど多数の事柄について議論した後に、初めてできることです。私は哲学ノートにおいて、これらの問題は議論済みなのですが、それを紹介するには紙幅も時間も足りませんので、深くは触れないことにします。敵前逃亡のような形になってしまったことをお許しください。またの機会がありましたら、哲学的な議論もしていきたいと思っています。しかし、表層として芸術とは、前述したようなことです。
最後に、蓮治と千尋という二人は、私にとって非常に思い入れが深い関係です。第一期がこの二人を中心に廻っていたこともあるのでしょうが、記憶障害を持つという千尋、哲学としては大変に興味深い対象をアニメで確認することができたことは、私に大きな影響を残しています。前回の『ef』の文書の中で、千尋という人間の人間性の否定を試みました。それが、どのくらい作者の意図の沿っているかは解りませんが、私としては満足のいく結論に導いていると思っています。その二人が、あれから幸せそうにしているところを観ると、どこか安心した気持ちになります。確か、まだ二人は絡んでいなかったように思います。後半に一回でもよいので絡みがあると、ありがたく存じます。今回の時評が、皆様に『ef』への理解を深めるために、何かしらのお役に立つことができていれば幸いです。

前回『ef』第一期について書いた文章も合わせてお読みいただければ、理解が広がると思います。
「『ef』をあつううううく語る」http://savarin20022000.blog119.fc2.com/blog-entry-12.html

ef―a tale of melodies― 公式サイト http://www.ef-melo.com/index_top.html

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